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- 1961
- 1961
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1924年〜1941年
大阪電気通信大学の原点は、開学する1941年から17年前に遡ります。
1925年、日本でラジオ放送が開始。ラジオという新技術の担い手を育てるべく無線技術教育が求められるようになりました。
無線通信技術の神様とも言われた岡田定幸は、ラジオ知識の普及に思いをはせ、民間によるラジオ技術者の養成を目指し、1924年8月、民間として初めて東京丸の内に「東京無線電話学校」、1925年1月大阪市北区扇町に「大阪無線電話学校」を設立。新しい無線通信技術の可能性を感じ、いち早く社会に役立てようと実践教育を展開していきました。
翌年、岡田の教え子であり、本学園の前身である「東亜電気通信工学校」の創立に深く関わる内田作蔵を大阪無線電話学校の校長に迎え「大阪無線電信電話学校」として新たにスタートさせ、ラジオの組み立てに必要な理論や実習に重きを置く実践教育を展開。本学における教育の原点となる考え方ができたのもこの頃かもしれません。
1931年満州事変が勃発。通信士の養成が求められるようになり、十数校の私立無線電話学校が続々と創設されました。そのほとんどは無線通信士の養成を主としていましたが、内田は通信士だけではなく無線技術者の養成を目指し、1932年3月に「大阪無線電気学校」を設立。校長には工学士でラジオ商店を営んでいた長野新十郎を迎え、新たな学びを展開していきました。内田は後に「我が国で初めて、その後の電気通信や電子工学といった分野における技術教育の基礎づくりを進めた」と振り返り、「単に人材を養成するだけではなく、卒業生の就職を考えることが大切で、そのことが学校発展のために肝要である」と説いています。
その後、内田は長野と離れることになり、1939年4月新たに学校設立を準備します。大阪無線学会を組織し、1940年3月には「専門教育」を目標とする「大阪通信工学院」を現在の大阪府羽曳野市に立ち上げました。同年4月、大阪無線学会主催での第1回無線通信士養成講習会が内田宅にて開催され、それを契機に、大阪無線学会の有志が中心となって官民各界に働きかけ、多方面からの支援を受けながら学校設立運動を展開していきました。そして、1941年3月、「中等教育」を目標とする「東亜電気通信工学校(現、学校法人大阪電気通信大学)」を守口市に設立。この時に、先にあった「大阪通信工学院」も含め、同時に2校が認可されることに。
時は、1941年12月の真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発の前夜でありました。
1941年〜1965年
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学舎全景
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通信実験
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19414月、日本の理工系技術の成長を願い発足した本学園は、「東亜電気通信工学校」(現在の大阪府守口市)ならびに「大阪通信工学院」(現在の大阪府羽曳野市)を開校。
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19433月には、東亜電気通信工学校が甲種工業学校に昇格。校名を「東亜電気通信工業学校」と改称し、その後同年4月に「財団法人東亜電気通信工業学校」が認可されました。
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19484月、東亜電気通信工業学校が新制工業高等学校・中学校として発足し、校名を「東亜電気通信高等学校」および「附属中学校」と改称。
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19513月7日、組織変更に伴い法人名を「学校法人大阪電気通信高等学校」、校名を「大阪電気通信高等学校」にそれぞれ改称しました。
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19581月10日、「学校法人大阪電気通信学園」と改称。同年4月に「大阪電気通信短期大学」を大阪電気通信高等学校と同じキャンパスに設立し、電子工業の興隆期に呼応し電子工学科第1部を設置。電子工学科を備える初の短期大学の設立となりました。
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守口学舎全景
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短期大学校舎
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196119654月1日、「大阪電気通信大学」を現在の寝屋川市初町(現 大阪電気通信大学寝屋川キャンパス)に開学。工学部電子工学科を設置し、翌年には通信工学科、1965年には電子機械工学科・電子物性工学科・経営工学科を設置。また高等学校では1962年に全日制で通信技術科・電子工業科・工業経営科・基礎工業科を設置、定時制には通信技術科・電子科を設置するなど、時代の要請に沿った技術者育成に努めてきました。
その理念は、「技術力のみならず人間性の向上を大切にし、教育を進めること」。本学園の中・高校長、さらには短大・大学の初代学長を務めるなど草創期の要職を歴任した道田貞治らが心を砕き発展させてきた思いが、今日まで学園の根幹として受け継がれています。中・高・短大、そして大学を擁するきめ細かな体制へと、明日への基盤形成を着実に進めていきました。-
電子顕微鏡
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電信電話搬送端局装置実験室
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学園創立20周年大学開設記念式典
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1966年〜1990年
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19734月、高校に全日制普通科を設置。同年9月、学校法人大阪電気通信学園を「学校法人大阪電気通信大学」、大阪電気通信高等学校を「大阪電気通信大学高等学校」と改称。
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197811月1日、大学のコンピュータファクトリーにコモドール2001型PET52セット設置し、対話型情報処理教育を実施。これは日本で初めてパソコンを用いた対話型情報処理教育の開発となり、カメラ・モニタ等を駆使したシステムの導入により、教員1名で複数の学生を教育する「1対多」が通常の1970年代に「1対1」の教育環境を実現しました。「電通大方式」と呼ばれ、“教育分野の情報化”の先駆けとなりました。
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コモドール2001型PETによる対話型情報処理教育実習風景
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19803月、大学に情報科学センターが発足し、大容量高速コンピュータと光LANシステムの構築が進み始めました。1985年3月20日に産学協同による衛星通信研究施設(宇宙通信衛星実験基地、大阪地区地球局)を開設。直径5mのパラボラアンテナが設置されました。
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衛星通信研究施設に
設置された
直径5mの
パラボラアンテナ -
大学情報科学センターに
設置された電子計算機
FACOM M-150F
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198710月、大学創立25周年・短大創立30周年記念事業の一環として四條畷キャンパス開設。 同年、物理分析研究施設として、エレクトロニクス基礎研究所を設置。
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198910月、情報科学センターにスーパーコンピュータ FACOM VP-30Eシステムを導入。
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完成した四條畷キャンパス正面
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エレクトロニクス基礎研究所
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大学情報科学センターに
設置された
電子計算機
FACOM VP-30E
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19904月、大学院工学研究科博士課程(前期)設置 総合電子工学専攻、制御機械工学専攻、情報工学専攻の3専攻を設置。
学科増設や大学院開設、四條畷キャンパス開設。独自性を発揮しつつ成長を続け、本学園の存在感を確固たるものとしていきました。
1991年〜2021年
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19927月30日、情報科学センターにスーパーコンピュータFUJITSU VP1200/20のシステムを導入し、パソコン端末を100台に増設。
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スーパーコンピュータ
FUJITSU VP1200
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19959月、全学ネットワークシステムが完成。大学の演習室で一般学生のインターネット利用サービスを開始。
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19984月、産学協同における活動も成果を上げ、関西の理工系単科大学で初めて、文部省(現 文部科学省)より、私立大学学術フロンティア推進拠点に選定。本学のエレクロトニクス基礎研究所は全国的な物質・材料分野の研究拠点となりました。
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エレクロトニクス基礎研究所
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情報処理教育センター・第2演習室
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20004月、新しい文化の創造を担う総合情報学部メディア情報文化学科を設置。21世紀情報社会の新しい生活・文化を創成していくことを目的に作られました。
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20019月20日、コナミ株式会社他寄付により、四條畷キャンパスにコナミホール・先端マルチメディア合同研究所(JIAMS)を開設。マルチメディア情報社会に向けた動きを先取りし、新時代の基盤づくりや創造的研究分野の拡大を図りました。グローバル化・情報化の急速な進展と対峙し、新しい社会の形成に先導的な役割を果たすという大学の“使命と存在理由”を明確に示した21世紀初頭の歩みです。
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コナミホール・先端マルチメディア合同研究所(JIAMS)
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コナミホール・先端マルチメディア合同研究所(JIAMS)
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メディア情報文化学科授業風景
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20111月21日、京阪電鉄寝屋川市駅東側の再開発地区に駅前キャンパスを竣工。
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駅前キャンパス
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2018これまで培ってきた情報教育のノウハウをベースに全国の初等中等教育におけるプログラミング教育をサポートするため、「ICT社会教育センター」を設立。茨城県教育委員会、大阪市教育委員会、寝屋川市教育委員会、四條畷市教育委員会、守口市教育委員会とプログラミング教育に関する連携協定を締結し、超スマート社会(Society5.0)の到来に備えた人材育成に貢献する新たな取り組みを開始しました。
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守口市初等中等学校教員向け研修会
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茨城県教育委員会における育成講座
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20206月15日、学科の垣根を超えたコミュニケーションを深化させる新たな学びをめざし、寝屋川キャンパスをリニューアル(第一期竣工)。「オープンな研究室で、専門外の新たな学問に触れ、研究のイノベーションを起こしたい。」という思いからOECUイノベーションスクエアと名付けられました。
OECUイノベーションスクエア