北海道の日高山脈、岐阜・福井の奥美濃の山、奈良の大峰山脈の沢登りなど、登山が好きでしたが、現在は休憩中。いまは日本古代史の文献を読みつつ、摩訶大将棋と初期平安京の復原研究に引き続き、日本書紀のテキストマイニングとチェスの起源問題にチャレンジしています。
古代インドのチャトランガもしくは古代ペルシャのシャトランジがシルクロードを東に進んで中国象棋となり、西に進んでチェスになったとされていますが、高見教授は平安時代の呪術の大型将棋から現代将棋、中国象棋やチェスが誕生したという「摩訶大将棋起源説」を提唱しています。
摩訶大将棋の盤面は19×16マスで平安京の条坊(南北に19保・東西に16保)と一致しており、平安京をかたどった可能性があります。勝敗を競うゲームには不自然な「蟠蛇(ばんじゃ)」「老鼠(ろうそ)」「古猿(こえん)」「淮鶏(わいけい)」等の駒も、呪術の視点に立つと、その動きや配置、十干十二支を含む駒の種類から陰陽五行思想の影響が見られ、理に適っています。
また、藤原定家の『明月記』には洪水の視察に行った定家が御前で将棋を指したという記述が残っており、将棋は天変地異を鎮める呪術だと考えられるのです。
平安京は唐の長安城を模して作られ、天円地方・天子南面の考えに基づき北に平安宮があります。災害時には平安宮で天皇が南面して将棋対局を見る呪術があったのかもしれません。古代の呪術的完全性を表す地の形状は正方形だと信じられていたことから、初期平安京や唐の長安城が正方形であったという仮説を、日本の古代都城である藤原宮や平安京の寸法を分析することで明らかにしようとしています。
さらなる説は、摩訶大将棋が大将棋、平安大将棋へと変遷する中で駒の種類と数を減らした後、中国象棋とチェスに分かれたとする「平安大将棋分割説」です。平安大将棋まで31枚ずつ駒が減りますが、拾遺和歌集には三条天皇に長く仕えた小大君の作とされる和歌があり、その内容が取り除かれた31の駒を連想させるとともに、和歌の三十一(みそひと)文字と同じであることも呪術性を示しています。
さらに、駒が減る過程で残された駒の名前と動きには一定の規則が適用されており、結果として中国象棋とチェスの駒が残ったようです。このチェスの起源が日本発祥の将棋であるという仮説に対する議論を活発に行っていくために、高見研究室ではPython(パイソン)を駆使したサイトを開設し、自動翻訳で世界各国のゲーム愛好家が自由に意見交換できる場を構築中です。
古代日本の多くの文化は海外から伝来したと考えられています。海外由来の文化も数多くあることは事実ですが、古代日本で誕生した文化が海を渡りさまざまな国の文化に影響を与えたということが明らかになってくれば、私たちが抱いている古代の日本のイメージは大きく変わっていくかもしれません。
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